駅前――  携帯を開く。……メールは来ていない。  ため息をついて、建物の壁に寄りかかりながら、  ――私も、随分と弱くなった。  そう思った。  今日はクリスマス。大きな駅なので、かなりの人混みでにぎわっている。  駅のすぐ前にはクリスマスツリーが立っていて、美しいイルミネーションを作り出している。 この駅のツリーはとても有名で、毎年わざわざ見に来る人までいると聞いている。  その温かな光を浴びながら、私は雑踏をぼんやりと見ていた。  こんな日だからだろうか、歩いている総ての人が幸せそうに見えてしまう。  そして、これは気のせいではないだろう、カップルが多いように感じる。  ……別に、カップル同士だから羨ましい、というわけではない。  ただ彼らは、なんというか……“温かそう”だった。  笑いあう表情や、繋ぎ合っている手、お互いを見る眼差し。  彼らを見ていると――なんだか無性に羨ましくなってしょうがなかった。  ……前の私だったら、こんなことは絶対に思わなかった。ただ、どうでもいいこととして自分の 中で処理するか、もしくは“通行の邪魔者”とさえ思っていたかもしれない。  ――ほんとうに、弱くなったなぁ。  少なくとも、自分の弱さを自覚することができる程度には。  この日。聖なる夜、静かな夜に、一人きりでいることが――なんだかとても切ない。  携帯を開いて、……もう一度新着がないことを何度も確かめる。  ふぅ、とため息一つ。  今度は閉じずに、携帯を操作して、三十分ほど前に届いたメールを呼び出す。 『ごめん、千早。もう待ち合わせ場所に着いちゃってるよな?  会議が急に入っちゃって、待ち合わせには遅れそうだ。……というか正直に言うと、もう今日は 行けそうにない。  本当にごめん! この埋め合わせは必ずするから、家に戻ってくれ』  ……つまり、私はプロデューサーに待ちぼうけを食わされたわけだ。    ――今日の朝方。 「ごめんな、千早。クリスマスだってのに、六時前まで仕事いれちゃってて」 「別に構いません、むしろ忙しいのはとてもありがたいことです」  と私はそう言ったのだが、 「……いいや。年末だってのに千早に働かせすぎだよな。俺も何とかしたいんだけどさ……」  と……その顔が本当に申し訳なさそうだったので、少し考えてから私はこう言った。 「では……今日の夜、食事でもどうですか?」 「食事? 全然構わないけど……それじゃ千早の休みにはならないだろ」 「いいえ。その気持ちだけで十分です」 「……ま、千早がそう言うんなら俺は大歓迎だよ。正直に言うと、クリスマスの夜に誰かと過ごせる なんて思ってもないことだ。それが千早ならなおさらだな」  そう言って彼は笑った。……その言葉に少し恥ずかしくなったけれど、私も微笑みを返した。  ――私だって、プロデューサーと過ごせて嬉しいんですから。  だけど、今日は昼頃からプロデューサーとは離れて仕事をすることになっていた。そのため、待ち合 わせ場所を決めて、時間になったら集合、という形をとったのだが――  結局、プロデューサーは来られなくなってしまった。  確かに私は約束を反故にされたわけだけど……別にそれを責める気はない。プロデューサーだって悪 気があってやったことじゃないし、そもそも原因となった会議だって、私の仕事のためにやってくれて いるのだから。文句など言えるはずもない。  だけど……どうしてこの日なのだろう。なんでわざわざこんな日に会議なんて入るんだろう。  神さまは、随分と非情だ。 「……ふぅ」  ため息をつくと、漫画の吹き出しみたいに真っ白になった。  ――一体、私は何を待っているんだろう?  そう考えた自分に苦笑する。  違うな。――私はいつまで待っているんだろう。  いや。多分、“待っている”という表現さえ正しくないのかもしれない。  いつまでぼーっと立っているのだろう。  ここは寒い。とても寒い。手袋をしているのに指が冷たくてしょうがないし、たまに吹く風のせいで だんだん耳が痛くなってきた。  待っているメリットは一つもないのだ。プロデューサーは、まず確実に来ない。  そして家に帰れば、一人きりだけど、……少なくともここよりは暖かく過ごせる。  でも、私の足はいつまで経っても動こうとしなかった。それこそ根を生やしたかのように。  その理由は、多分、とっくに自覚している。  ――プロデューサーに、逢いたい。こんな日だけど。こんな日だからこそ。 「……よー、そこの彼女、ヒマ?」  ふと、誰かから声をかけられた。私の目の前に、金髪の男の人が立っていた。  俗に言うナンパ、というやつだろうか。 「人を待っているんです」  そう言って追い払おうとしたのだけど、男の人は食い下がってきた。 「んなこと言ったって、さっきから三十分も待ってんじゃん」  ――見られていた。少しだけ恥ずかしくなる。 「俺も彼女に約束すっぽかされちゃってさあ。寂しい者同士、慰め合わね?」 「申し訳ありませんが……お断りします」  きっぱりとそう言って目を背ける。 「えー。いーじゃん、おごるぜ? 色々といい店知ってんだ、俺」  ……しつこく話しかけてくる。壁に手をついて、私に体を寄せてくる。 「君みたいな可愛い子ほっとく男なんてただのバカだよ。君への気持ちなんてそんなもんだったんだよ。 そんな奴はいいからさ、俺と過ごそうぜ?」 「……ッ」  その一言は――頭に来た。  私は一歩踏み出し、きっと彼を睨み、口を開こうとして、 「あー、千早ちゃん! 待たせちゃってごめん!」  そんな声が聞こえた。 「……こ、小鳥さんっ!?」  声のほうを見ると、小鳥さんがこちらのほうへ歩み寄ってきた。  私と男の人の前に立つと、微笑みながら言った。 「そんなわけで、さっさとどこか行ってください。しつこい男はモテないですよ。……というか、そんな 性格だから彼女にすっぽかされたんじゃないですかねー?」  表情は穏やかだが、言葉の内容は皮肉たらたらだった。  しかし彼はまだ私の近くから離れようとしなかったので、 「人呼びましょうか」  と、トーンを落とした声で小鳥さんが言うと、やっと彼は私から離れた。 「……チ」  舌打ちをして去っていく。 「…………」  私は突然の出来事にあっけにとられていた。 「こ、小鳥さん……どうしてここに? まさか、」  しかし小鳥さんは、私の言葉を遮るように、パタパタ手を振って笑った。 「違うわ。今回は別にオフタリサンをデバガメしようとしたんじゃなくて、プロデューサーさんに頼まれ たの」 「……今回“は”?」 「げふんげふん、とにかく……“ひょっとして千早がまだ待ってるかもしれないから、小鳥さん、家に送 ってやってくれませんか”って」 「……プロデューサーが、そんなことを」 「そ。プロデューサーさんも、すごいわね。“俺の自惚れかもしれないから、違ってたら思い切りからか ってください”とは言ってたけど」  小鳥さんはにっこりと笑った。 「ふふ、千早ちゃんのことをよく分かってるし、信用してる。私もまさかって思ったけど、本当に千早ち ゃんがまだ待ってるからビックリしちゃった」 「う……」  恥ずかしい。顔から火が出てしまいそうだ。  ……そして、そんなプロデューサーの気遣いが嬉しくもあり、ちょっとだけ悔しくもある。 「……小鳥さん。その、さっきはありがとうございました」  話題をそらしたくて私はぺこりと頭を下げた。 「え? ああ、追っ払ったこと? ふふ、お姉さんに任せておきなさい」  笑う小鳥さんの顔は……なんだかとても優しさに満ちていた。口ぶりにも、あまりからかっているような 様子がない。 「さ、それじゃちょっと行きましょうか」 「え?」  言うが早いか、小鳥さんは私の手を引いて歩き出していく。 「あ、あの、どこに……?」 「女の子二人で入るのに、いい店を知ってるのよ。私、このままだとクリスマスを一人で過ごすことになっ ちゃうから、今日はお姉さんに付き合って欲しいな」  そう言って彼女は悪戯に笑う。  ……その顔を見ると、なんだか少し心が軽くなった。 「――はい」 「よし! きまり〜!」  嬉しそうに歩き出す小鳥さん。私はその後ろについていった。 * * *  ――二時間後。  駅へ戻る私たち。 「うぃ〜、ひっく、なによぅ、みんなイチャイチャしちゃってさぁ、私だってねぇ、私だってねぇ……」  べろんべろんに酔っぱらった小鳥さんが出来上がっていた。  ……この二時間は、小鳥さんがお酒を飲んでいただけのような気がする。  小鳥さんもこのクリスマスという日に何か思うところあるようで、男なんて男なんてと呟きながらガブガブ お酒を飲んでいた。  ……とりあえず、“小鳥さんに大量にお酒を飲ませてはならない”ということはよく理解した。 「あの。小鳥さん、一人で帰れますか?」  彼女の足取りはどこか覚束ない。顔も真っ赤である。 「んにゃ〜? じぇーんじぇーん、だいじょーぶよ〜」  ……不安だ。  この時間帯にしては奇跡的といってもいいほど、運良くタクシーが捕まった。小鳥さんをそこに押し込み、 住所を聞き出して、私が代わりに運転手さんに教える。  ――これじゃ、最初と立場が逆ね。  そう思って苦笑する。 「……ちはやちゃーん」  と。真っ赤な顔をした小鳥さんが、ドアの窓を開けて私に話しかけた。 「プロデューサーさんは、じぇったい、ちはやちゃんがたいせつだから、ね〜」  最後にそう言い残して、ばったりと、糸の切れた人形のようにシートに倒れ込む小鳥さん。 「…………」  運転手さんが車を発進させる。  ……私は、一人取り残された。  小鳥さんと話したからだろうか、心は大分軽くなっていた。やっぱり、誰かといるというのはそれだけで 違うものだった。 「…………」  これから、どうしよう。終電まではまだ時間がある。  さすがに先ほどよりは減ったが、駅前はいまだ人で混み合っている。ツリーの周りにも、見物客はまだ絶え ない。  ひょっとしたらと思って、先ほどの集合場所に行ってみたけれど、……当然ながらプロデューサーはいなか った。 「……あ」  空を見上げる。  雪が降っていた。  白い結晶がイルミネーションと重なる。ツリーの緑と周りを彩る赤と、七色の光と白が合わさり、それは、 一つの絵画を見ているようにさえ思える。  ただ、きれいだな、と思った。  ――もう少しだけ。このままでいよう。  そんなことを思った。  この温かな光を見ていると……なんだか帰る気が薄れてしまった。  終電まではもう少しあるし。しばらくこのままでいても、罰は当たらないだろう。  ……せっかく小鳥さんがわざわざ来てくれたのに、申し訳ないけれど。  舞い降りる雪は、なんだかとても、あたたかい。  実際は寒くてたまらないけれど、あと少しくらいなら耐えられるだろう。  ――そんな嘘を、自分についたりして。  ほんとうは、いまだに未練を引きずっているだけだ。  ……彼は小鳥さんに私のことを頼んできた。私はもうとっくに家に戻ったものと思っているだろう。仮に 会議が何時間も前に終わっていたとしても、彼も自宅に帰っているはずだ。  それなのに。99パーセントありえないと理解しているのに、残りの1パーセントに期待してしまう。  まるで子供の意地みたいだ。  空から舞い降りる粉雪を見つめる。  だんだん、人々の喧噪が遠ざかってゆくような気がする。  冷たすぎて、指の感覚がなくなってきた。耳ももうもげてしまいそうなほどに痛い。  ……携帯を開く。  メールは来ていない。  時計を見ると、そろそろ終電の心配をしなければならない時間になっていた。  もう何時間くらい待っているんだろう。  とても長く感じたような、あっという間だったような……寒すぎて辛いことには変わりないのだけれど。  何か温かい飲み物でも買ってこようかとも思ったが、その間にすれ違ってしまったら……と思うと、その場 から離れられない。  少しずつ……クリスマスが遠ざかってゆく。今日という日が終わろうとしている。  ぽつんと一人きり。周りにたくさん人がいるというのに、なんだかこの世界に自分一人だけが取り残された ようだった。 「……ん」  ふと、なんだか頬がちょっとだけ温かくなったことに気づいた。ほんの小さな範囲だけだけど、不自然に、 ぽっと温もりを感じた。  どうしたんだろう、と、頬に手を当ててみると……  ……手袋にしめった感触。  濡れてる? まさか、雨? ……そんなはずはない、今降っているのは雪だ。それに、冬場に温かい雨なん て存在しないし……  少し考えたら、気づいた。  手から手袋を外して、直接頬に触れてみる。 「私、泣いて……?」  自分でも驚いた。本当に気づかないうちに、目から涙がこぼれていた。  訳が分からない。どうして自分が泣くのだろうか。  嗚咽をするわけでもなく、ただ静かに涙をこぼすだけで。  変な気分だった。哀しくもない、まして嬉しくもない。それなのに。  自分の矮小さに情けなくなったのだろうか。はたまた、寒さに身が凍えそうで体が無言の悲鳴をあげてい るのか。  分からない。分からない。  とにかく私は、溢れる涙を抑えることができなかった。 「………………」  視界がにじむ。  人混みもうっすらとしか見えなくなっている。ただ降り注ぐ静かな雪と、冷たい風と、  頬を撫でる指が、  …………指が? 「…………………………千早?」  そんな声がした、  誰の声だろうか、  気のせい?  ……私は、指で目をこすり、涙を払ってから前を見て。  そこに…… 「……プロデューサー」  プロデューサーが立っていた。 「あ……の、」  どうしてここに――と聞こうとしたが、上手く言えなかった。  涙を見られたことの言い訳とか、私がいまだここでプロデューサーを待っていることの弁解とか、そういう 言葉が上手く口から出てこなかった。 「千早……お前、なんでまだここに……」  プロデューサーは信じられない、といった表情をしていた。 「……小鳥さん、来なかった?」 「あ、はい、来ました。えっと、来ましたが……その、えっと……」  ……なんと言えばいいんだろうか。 「こ、小鳥さんは別に悪くなくて、私が勝手に、ここにいるだけで、」  すぐに言葉が途切れてしまった。  プロデューサーが見てる。何か言わなくちゃ、何か、何か…… 「プロデューサー、……お、女の人と会っていたわけではありませんよねっ!?」  ――咄嗟に出た言葉が、それだった。 「……………………はぁ?」  ぽかんと口を開けるプロデューサー。  それから、急に笑い出した。 「あっはっは! 当たり前だろ!」  文字通りお腹を抱えて笑っていた。 「……はー、今の今までずっと会議だったんだよ、千早が疑うなら証拠だって提示できる、明日その会議に出て た人に聞いてくれ」  ちっとも怒っている素振りを見せずに、本当におかしそうに笑うプロデューサー。  その反応に恥ずかしくなり……ちょっとだけむっとなる。 「まさか、それ確かめるために、ずっとここにいたのか?」  まだ笑みを浮かべながら、彼はそう聞いた。 「……ち、ちが、」  います、と続けられなかった。  ――確かに、小鳥さんが来る前、ナンパされたときにかけられた言葉が印象に残っていたのは確かだ。  でも、私が言いたいのは、そんなことじゃ、なくて―― 「――ぷ、プロデューサーは、どうしてここに? 確か家はこの駅じゃなかったはず……」  とりあえず、そう言葉を紡いだ。  この駅はプロデューサーと私が、今日それぞれ仕事をしている場所の、ちょうど中間地点となる駅だったので 集合場所に選ばれただけだ。 「……あー」  プロデューサーは少し答えにくそうにポリポリと頬をかいてから、 「もしかしたら、……まだいてくれるかも、って思ってた」 「……え?」 「自惚れなんだけどさ。千早がいてくれたらな、って。小鳥さんに頼んでおいたし、ありえないことだって分か ってたんだけど、その、ついつい来ちゃったんだ」  はにかむように笑う、彼。 「……ぶっちゃけ、千早に会いたかった」 「あ……」  ごくごく、自然な動作で――  私は、彼に抱き寄せられていた。  柔らかく、包み込まれる。 「……本当は褒められるべきことじゃないぞ。アイドルが、というより女の子が、こんな時間まで一人でいちゃ いけません」  けれど、そう言う彼の声に、まったく棘はなかった。  そして、私の髪を撫でながら、 「――待っててくれて、すごく嬉しかった」  そう、続けた。 「…………」  肩の力を抜いて、プロデューサーに体を預ける。  顔を彼の胸に埋める。  ――温かかった。  暖房で得られる人工的な温もりや、雪を見て感じる暖かさでもなく。  心から安らぎが得られるような。思い切り泣いてしまいたくなるような。  私は今日、ずっとこれを求めていたんだ、と素直に思った。 「私も――」  プロデューサーの背中に腕を回す。人の目がある場所だが、気にならなかった。 「――プロデューサーに、とても、逢いたかった」  だから、ずっと待っていました。  何時間も、何時間も。 「……プロデューサー。私のこと、大切ですか」 「ああ」 「ほんとうですか」 「本当だ」  即答だった。優しく、柔らかい声で。 「どこかに行っちゃったり、しませんか?」 「千早が俺を必要としてくれてる限りは」 「その答えは、少しずるいです、プロデューサー」 「そうか?」 「そうです。主体性がありません」  そんなやりとりをする。 「あー。それじゃあ、これならどうだろう」  プロデューサーは悪戯な声で言う。  彼は腕をゆるめ、私を体から離す。  そのあとで、私の両肩に手を置いて、  そして、  …………………………。 * * * 「……あ、大変です、プロデューサー」 「どうした?」  時計を見て、言う。 「終電、行ってしまいました」  気づけば駅前の人混みもかなり減っていた。みんな家路を急いでいるようで、立ち止まっているのは私たち だけだ。 「……うわ。そりゃ困ったな。どうしよう」 「えぇ。困りました」 「……あんまり困ってなさそうだな」  なんだか、顔に笑みが浮かんでしょうがなかった。 「きちんと、なんとかしてください。プロデューサーのせいですから」 「……俺のせい?」 「えぇ」  彼は苦笑しながら、頭をかく。 「あー。じゃあ何とか……する。頑張る」 「はい」  どちらともなく歩き出して、どちらともなく……手を繋いだ。  片方だけ手袋を外しての、とてもアンバランスな格好だったけど。  彼の手は大きくて、手袋よりも温かかった。  心に、すべてが、満たされる。  ……隣に彼がいることを噛みしめながら、思った。  ――私が弱くなったのは、全部、貴方のせいなんですから。  責任、とってください。  聖なる夜は、いつまでも、光り輝いていた。