鏡・中編〜理想への疑惑〜



登場人物

阿木七鈴(あき　なすず)：主人公。
　　　　　　　　　　　　ＳＳ商社営業二課の副課長を務める２３才。
　　　　　　　　　　　　仕事に厳しく、優秀であるが故に疎まれる事も多い。

袴田弘矢(はかまだ　こうや)：七鈴の後輩の２２才。
　　　　　　　　　　　　　　やや不器用で、課内の一部の人間に馬鹿にされているが、気の弱さ故に逆らえないでいる。
　　　　　　　　　　　　　　自分を庇ってくれる七鈴にはとてもなついている。

引宮星呼(ひきみや　せいこ)：二課の２７才の女性。
　　　　　　　　　　　　　　仕事振りも優秀で、気が利き、温和で慈愛に満ちた性格と非が無い。
　　　　　　　　　　　　　　七鈴とは色々とあって仲が良い。

大松篤紫(おおまつ　あつし)：探偵社で働く２３才。
　　　　　　　　　　　　　　七鈴とは恋人同士だが、互いに忙しい為に中々会えない。
　　　　　　　　　　　　　　若干仕事を優先し過ぎるきらいがある。

四之崎頼一(しのさき　らいいち)：探偵社の社長。
　　　　　　　　　　　　　　　　５３歳と年は取ったが、探偵としての技量は失っていない。

鳥丸昂(とりまる　すばる)：探偵社で働く３２才。
　　　　　　　　　　　　　追跡の達人。

十田万夜(とうだ　まや)：探偵社で働く２８才。
　　　　　　　　　　　　変装と運転が得意。

佐倉泰輔(さくら　たいすけ)：ＳＳ商社営業二課の課長である４３歳。
　　　　　　　　　　　　　　大して仕事をしない割に威張っており、部下からの信頼も無い。
　　　　　　　　　　　　　　数人の取り巻きを従え、好き勝手にしているのは父親が国会議員だかららしい。
　　　　　　　　　　　　　　七鈴とは非常に仲が悪い。


















職場が理想的と成って一ヶ月が過ぎた。
仕事は増えたが、皆で団結してやれるので苦は無いし、引宮の指示も的確なのでどんな仕事でも直ぐに片付く。
其れだけでも充分に幸せな七鈴であったが、変化は他にも起こり始めていた。

「ふう…今日も残業せずに帰れたわ…うーん、何をしようかしら？」

仕事が早く終わる分、私生活を楽しむ余裕が出来たので、何をするか悩むくらいであった。

「そうだ！久し振りに篤紫に連絡してみよう！」

大松篤紫、七鈴と高校時代から付き合っている恋人だ。
大学には行かずに尊敬していた探偵に弟子入りし、今では其の探偵が開いた探偵社に勤めている。
仕事は忙しいらしく、最近は互いに連絡を全くしていなかったが、元々仕事を優先させ過ぎるきらいがあった。
繋がれば良い程度の期待で連絡を試みた七鈴。
ところが、篤紫の反応は意外なものであった。

「おう！七鈴か、久し振りだなあ。」

「ええ、本当に。最近どう？探偵業は順調？」

「はは、結構良い感じだぜ？そう言うお前はどうなんだよ？やっぱり忙しいのか？」

「まあね。でも、最近課長が変わってから凄く仕事が楽しいのよ！残業も減ったし、自分の時間を持てるし。」

「へえ…ならよ、今度何処かに出掛けるか？暫く振りだし、パーっと楽しもうぜ？」

「え！？良いの！？」

「当たり前だろ？一応俺等付き合ってるんだしさ、最近ちょっと離れ気味だったし。」

「嬉しいわ…ええ、是非行きましょう！」

「おう、じゃあまた連絡するよ。幾つか候補決めとくからな。」

「うん！じゃあまたね。」

以前の篤紫と言えば、デートに誘っても忙しいの一言で片付けられていた。
其れが向こうから誘ってきたのだ。
職場同様に上手くいき過ぎな気もしたが、今の七鈴は嬉しさのあまり大して気に留めなかった。

「どうしよう…最近の私、とてもついているわ！こんなに幸せで良いのかしら…ふふ。」

そんな喜びに満ちていた七鈴。
だが、さらに三ヶ月が経ったある日、彼女は疑惑に悩み始めた…

「じゃあ阿木さん、此の書類お願いね。」

「はい、課長。ええと…」

「ああ、あくまで大まかな流れを纏めるだけで良いから。」

「あ、はい。あと…」

「そうね…二、三人くらいなら連れて良いわよ。」

「はい、では…」

「…」

「何で…」

最近、七鈴が何か言おうとしただけで、引宮は思っていた事への返事をくれるのだ。
親交が深まり、所謂「阿吽」で察知しているだけなのかもしれないが、其れにしても的確過ぎる。
まるで自分の心が読まれている様だ。
さらに数週間が経つと、其の疑惑はより深く成った。
自分以外の人間にも同じ様に先読みした答えを出している。
其れだけならまだ良い。
まるで結果がどう成るかも分かっている様な言い回しをするようにまで成って来たのだ。

「奈田君、此れは二百にしてね。其れで良くなるから、」

「神能さん、今から部長が来るからお茶を用意して貰えるかしら？ええ、もう来るから。」

奈田に指示した物資の納品数は確かに丁度良くなったが、元々決められていた数で上手くいく筈だったのだ。
偶然起こった事象が元で好転したのだが、引宮は自信満々で指示を出していた。
また、神能への指示も妙だった。
確かに部長が直後に現れ、用意されていたお茶に喜んでいたが、二課を訪れたのは単なる気紛れであったらしく、来る事が予想出来た筈が
無いのだ。
二課の業績が上がったのも、引宮がどうすればどうなるかが全て分かっているからこその結果なのかもしれない。
そんな考えが七鈴の脳内に浮かび、離れなかった。
引宮星呼という人物が、とても恐ろしいモノに思えて仕方が無いのだ。

「…若しかすると超能力者とか！？ううん…そんな筈は…でも…」

相手は自分の親友で、理想の上司だ。
出来れば疑いたくなどないが、近況はそうだと言う…

「どうしよう…信じられないけれど…でも…怖い…そうだわ！調べれば良いのよ！調べて気のせいだったと分かればすっきりするし！」

「何がすっきりするの？」

「！？」

少し考え込み過ぎた様だ。
気付くと七鈴の真横に引宮が居た。

「(嘘…聞かれた！？)」

「どうしたの？顔色が悪いわよ？」

「え？ああ…いえ、別に？何か聞こえちゃったりした？」

「私はすっきりするとしか聞いていないけれど…何か悩んでいるの？」

「あ、ええと、気にしないで！何でも無いから！」

「そう？でも何かあったら何時でも私に言って頂戴ね？私達、友達なんだから…何でも相談に乗るから…」

引宮は本気で心配している。
どうやら肝心の部分は聞こえていなかったらしい。

「ええ、いざとなったら貴女を頼らせて貰うわ。でも今は本当に何でも無いから、安心して？」

「分かったわ。あ、そうそう！ちょっと頼みたいんだけれど…」

「はい、ああ…」

何時も通りの上司と部下に戻る二人。
其の後も腹の内では別の思惑を巡らせながら、七鈴は日常をこなしていった…

…夜

「そうなのよ、凄いでしょう？あ、ところで一つ頼みたい事が有るんだけれど…」

七鈴は篤紫と電話をしていた。
何気無い会話から始め、いよいよ例の件を出そうという所だ。

「おう、どうした？お前が頼み事なんて珍しいな。」

「うん…ちょっとね、ある人について調べて欲しいの。」

「ん？素行調査か？まあ構わんが…誰だよ？ターゲットは。」

「その…何回か話に出したと思うんだけど…引宮星呼さん。」

「其れってお前の上司で親友の？何でまた…ケンカでもしたか？」

「ううん、ちょっと…怖い事が有って…」

七鈴は最近気付いた事を全て話した。
心の中で、此処まで来たらもう後戻りは出来ないという事を自分に言い聞かせながら。

「…成る程な。確かに妙な話だな…分かった、やってやるよ。」

「有難う！ごめんね？忙しいのにこんな事頼んじゃって…」

「はは、まあお前の数少ない頼みだしな！んじゃあ明日から即刻調べるわ。何か分かり次第連絡するからな。」

「うん、宜しくお願いね。じゃあおやすみ…」

「ああ、またな。」

電話を切り、ベッドに仰向けに倒れる七鈴。
ついに動いてしまった。
親友と呼べる引宮を、非現実的な理由で調べる…完全な裏切りだ。
胸のむかつきを抑えようとするが止まらない。
罪悪感が押し潰して来る様な感覚が離れないのだ。
しかし、全ては自分でやった事。

「後は…待つだけなのよ…」

そしてあっという間に一週間が過ぎていった…

昼休み、七鈴は何時も通りに引宮とテラスで昼食を摂っていた。
疑ってはいるものの、表向きは親友を続けなければならない。
時たま見せる不可解な面を除けば、此れと言って彼女を避ける理由も無いし、気は合うのであまり苦労はしなかった。

「七鈴さん、最近調子はどう？一時貴女まるで元気が無かったじゃない？何か知らないけれど解決しました？」

「え、ええ。だから大丈夫って言ったじゃない。」

引宮にも変化は無い。
篤紫の調査は進んでいるのだろうか？
不安に思った七鈴は少し仕掛けてみる事にした。

「あ、ところで星呼さん。若しもの話なんだけれど…」

「何？」

「若しもよ。私が実は本物そっくりの偽者だとしたら、どうする？何時の間にか何もかもそっくりな偽者に入れ替わっていたら…」

「ええ？難しい話ね…どうかしら？本物と気付かなかったら其のままかもしれないわね…」

「じゃあ…気付いちゃったら？あ、ちょっと違うって思ったら…」

「うーん…本物の七鈴さんの居場所を問い詰める…のかしら…ごめんなさい、ちょっと想像が出来なくて…でも何故そんな話を？」

「あ、いや…ちょっと怖い夢を見ちゃって…星呼さんならどうするかなって思って…」

「…」

少し危険過ぎただろうか？
引宮は若干疑う様な目をしている。

「ええと…気にしないで！今のは無かった事に！ね？」

「…分かったわ。無かった事にね…」

七鈴はぞくっとした。
一瞬、引宮の目が恐ろしく見えたのだ。
何か…漫画の中の悪魔か何かの様に思えた。
やはり引宮星呼は人間では無いのかもしれない。
そう、強く疑惑を深めた七鈴だった…

―夜

昼間は無茶をし過ぎた。
そう思いながら七鈴はベッドに臥せっていた。
篤紫からの連絡は未だ来ない。
あの日からずっと音信不通なのだ。

「…大丈夫かしら。」

徐々に恋人の安否が不安に成る。
引宮が人間では無い、何か恐ろしいモノだとすれば、其れを調べている篤紫に危険が訪れてもおかしくは無い。

「…もう一回、もう一回だけ掛けてみよう。」

受話器を取り、番号を打ち込む。
篤紫の自宅は…繋がらなかった。
家に戻っていないのだろうか？
次に、携帯電話に掛けてみる。

「…お願い、せめて出て！」

プルルル…

「お願い！」

しかし、其の電話は出ないどころか、七鈴を更なる恐怖に落とす事と成った。

ヴー…ヴー…

携帯電話のバイブ音が、何故か七鈴の部屋の中から聞こえたのだ。

「え…篤紫…居るの…？」

恐る恐る自室に近付く七鈴。
段々バイブ音は大きくなる…やはり部屋の中から聞こえている様だ。

「…其処…なの…？」

バイブ音はクローゼットの中から響いている。
収納する物が多く、クローゼットの空きスペースはかなり少ない。
小柄な女性くらいなら入ろうと思えば入れるが、大柄な篤紫が若し入っているとすれば、普通の体勢では無理だ。
体をバラバラにでもしない限りは…

「…」

七鈴は震える手を必死で動かしながら、一気に戸を開けた！

「…え？」

其処には篤紫の姿は無かった。
携帯電話がぽつんと置かれ、震えているだけだ。

「…どういう事…なの…？」

篤紫は合鍵を持っているから此の部屋に入る事は可能だ。
だが、自分に知らせないままにクローゼットを開け、携帯電話だけを置いて行った？
訳が分からない。

「ええと…どう…あ、探偵社！」

篤紫の勤める探偵社に訊けば何か分かるかも知れない。
恐らく今回の事を上司には話している筈だし、若しかしたら社員だけの秘密の連絡手段が在るかもしれない。
既に夜遅かったので、翌日に仕事を休んで訪ねる事にし、七鈴はベッドに寝転んだ。
恐怖を感じた引宮を調べていた筈の篤紫が消えた…しかも自分の部屋に携帯電話を残して…
とても眠れる状況では無かったが、他に出来る事も今は無い。
布団の中で震えながら、彼女は朝を迎えた…

中編・終わり

後編に続く…