まだ暗い部屋の中で、ふっと意識が浮きあがった。
見慣れない天井と、見慣れない匂いの空気。触れる布団もベッドもふかふかなのに肌寒い。身じろげば素肌と布団が擦れた。…それは寒いはずだ。
隣を見れば、オルティがいた。
寝ぼけて回らない頭は、オッサンだ、としか思考できなかった。もっと思うべき事は色々あるはずなのに。

身じろぐ。と、差し込む空気が素肌を撫ぜる。
肌寒さがびくりと手を止めた。止められて初めて、伸ばしてたって気付いた。
ベッドの上に散らばっても、尚白いその髪に。白い髪が余計に引きたてる、浅黒いその肌に。
伸ばそうとしてたって、気付いた。爪も拳も忘れた、ふやけた手だった。

伸ばして。
――伸ばしたって、誰もいないのに。
触れて。
――触れたって、もう冷えきってるのに。
掴んで。
――掴んだところで、

(弾かれるのに。)

不意に。その手がぐいと引かれた。


「…!?」
声も出ない程に驚いた。軽くひっぱられた身体はぽすっと腕の中に収まって。いつもよりも緩慢な両腕が、ぬいぐるみでも抱くように抱きしめた。
…何が起きた今。追いつけない頭をぽんぽんと、大きな手が撫でた。
「……もぞもぞうっせぇよ、馬鹿…。」
低い唸り声は眠そうだった。
動かない彼に満足したらしく、オルティはそのまま夢の中。
長い耳を撫ぜる寝息がくすぐったくて、肌寒さなど忘れてしまった。

(…………。……嫌いだ。)

そういうとこが。だいきらいだ。くそやろう。



5度4分の


fin.


なんでよりにもよって石落とすんだよクソボケが。
落としたとしたら一箇所しか考えられず、立ち去ったばかりの応接室にエヴァグリーンは舞い戻った。


そこで目の当たりにしたのは、机でうたた寝ているオルティだった。


…牙で以て、他を喰らい生きる彼の"血"は、
"獲物"を喰らう方法を幾通りも導き出していた。驚き瞠った目が、まばたきする間に。
時が止まったように静かだった。自然と気配も消していた。今の自分は完全に、無音に溶けている。

今、

殺れる。

巡る巡る血が、冷たく、熱かった。


踵からつま先へ、ゴムの靴底は音も無く離れる。
踏みしめた一歩の分、視界に映る彼は大きくなった。
時計の音すら混じらない、耳鳴りさえも混じらない。透明な無音で満ちた箱を、エヴァグリーンはぬるりと泳いだ。
身体は思った以上に軽く、ひょいと足を進めてしまう。もっとゆっくり、もっと。どうしてかそう念じた。何度も。何度も。
所詮は、数歩で終わる距離。あっという間のゴールインだ。着いたゴールに立ちつくして、エヴァグリーンはそれを見下ろす。
長い白髪から覗く頸動脈をじっとじっとじっと見下ろして。
息をするようにただただ自然に、エヴァグリーンは手を振り上げる。何も考える必要のないルーチンワーク。必要がない、はずなのに。透明な無音で満ちた頭蓋に、ごぼりと自問が混じった。

それは、"何"かと。問いかける泡が、混じった。

……何を、今更。コイツは、忌々しいクソ色野郎で、
『エヴァグリーン。俺と商売をしよう。』
クソ色の分際で、この俺をこき使うクソボケで、
『さ、さっきの女、殺ってこい。』
『やっぱりお前は面白い奴だなァ。お前にしてよかったぜ。』
クソ色の、分際で。
『仕方ないな、お前の頭でも分かりやすく言ってやろうか?』


『俺はお前が必要だ、エヴァグリーン。』


ごぼ、ごぼ、ごぼ。
泡が、混じる、混じる、混じる。
透明な、澄みきった、無音に満ちた頭蓋の中を、泡が、泡が、濁していく。
脳髄がびりっと痛んだ。警鐘を鳴らしていた。この泡はじきにお前を溶かすぞ、エヴァグリーン。
荒れそうな呼吸を必死で殺した。心臓だけは鳴りやんでくれなかった。膝から崩れてしまいそうな足を必死でふるい立たせている。
己に混入した無数の"異物"が、ただただ、ただただ、恐ろしかった。

振り払え。喰い殺せ。戦え。勝利しろ。生き残れ。血が、叫ぶ。
まるで命乞いでもするような必死さで。
いつしか脂汗の浮いた瞼を、ぎゅっと歪めてまた手を振り上げた。
だけど、



だけど。



…ばんっと叩き割るようなドアの音と、騒々しく廊下を駆ける靴の音。
それらが遠ざかる中。ゆっくり瞼を開けたオルティは、ぽっかり口を開けたドアを見つめていた。



Den lille Havfrue


憂うように、見つめていた。

fin.


「よくそんな飽きもせず吸ってられんな。」

半ば無意識にぽろっと言うと、オルティがきょとんと目を向けた。
「ん?コレか?」
焦茶のパイプを軽く持ち上げて見せる。
ソファに座るエヴァグリーンは首肯すらせず、頬杖ついてけっと鼻白んだ。
「四六時中ふかしやがって肺癌で死んじまえ。」
「ほー、随分気長に生かしといてくれるんだな。」
「ッ!?ざッ、けんなこのクソ色野郎!!調子乗ってんじゃねェぞ明日にでもテメェなんざミンチ肉のハンバーグだ!!」
「へいへいそいつぁーうまそうだな。」
クソ不味いに決まってんだろ馬鹿か、とひとしきり吠えてぷいっとそっぽを向いた。慣れきったオルティはマイペースに煙をふかしている。その煙を苛立たしげに、でもどこか探るように、視界の端でエヴァグリーンは見やった。
「……それだってぜってー不味いだろ…。」
低い呟きはばっちり聞き取られたようだった。ぱちくりまばたいたオルティの目に興味が灯る。
それに気がついた時にはもう遅く、いつのまにか近付いていたオルティが嫌な微笑を浮かべていた。
「……んだよ。寄んな。」
「吸ってみるか?」
「は?誰がんなクソ趣味悪いモn
言い終わらないうちにパイプが突っ込まれた。んぐっ!?と驚く様にオルティはにやにや笑む。ほーらちゃんと咥えろよー等と言葉チョイスまで悪意たっぷりだ。
ふざけんなクソ野郎、と吠えたであろう台詞はふがふにゃふにゃにしかならなかった。何を言ったところでニヤつきを助長させるだけ。渋々諦めた、という風体で、エヴァグリーンは吸い口をそっと食んだ。
ぎこちなく息を吸えば、あの甘い匂いが濃厚に薫る。
だが次の瞬間、舌をつんざくようなえぐい苦みがやってきた。
「ッッ!?!?げほッごほッがはッ、う゛えぇええ…ッ!!」
「おーおー、噎せてら噎せてら。」
「ごほッ、ッの、笑い事じゃ…げほげほッ、ねェぞ、クソやろ…ッ!」
涙目で噎せるエヴァグリーンは大層愉快なものだったらしい。実に愉しそうなオルティにエヴァグリーンの拳がわなわな震えた。
「なンだ、ケツだけじゃなくておクチまで童貞か?」
「黙れクソボケ!!煙草ぐらい吸った事あらァ!!テメェが吸ってんのがクソマズすぎるだけだっての!!」
そーかそーかと言いながらもくつくつ笑ってんのがああもう腹立たしい腹立たしい。このパイプへし折ってやろうかと一瞬思ったが、さすがのエヴァグリーンでもその後ロクな目に遭わない事が想像できた。
散々肺の中を暴れ回った煙は、ようやっと気が済んだのか静かになった。舌を刺す苦みも気がつけばほとんど消えている。あっけないものだ。
だけどほんのわずか、ほんのわずか残り香のように後味を引いていて。
苦みの薄まったそれは確かに、甘かった。その後味すら舌の上からするりと去ろうとしていて、思わず手を伸ばしそうになる。
「うめェだろ?」
ぱ、とオルティがパイプを回収した。あ、とパイプを目で追えば、元通りオルティの口元に収まった。その口元には微苦笑が滲む。
「ガキにゃあ早ぇシロモノだけどな。」
「ガキじゃねェつってんだろが。そンぐらい俺にも吸えらァ。」
「ばァか。コイツがいくらすんのか知ってんのか。テメェの小遣いなんてあっという間に吹っ飛ぶぞ。」
ふぅ、と吐く息が甘く薫った。上等そうなコートの生地に、染み込みながら薫っている。
「コイツに惚れるなんて簡単な事さ。コイツはガキだろうとジジィだろうと惚れさせるからな。だが養っていくのは結構な骨だ。そのくせ一度惚れさせた奴をコイツは決して離しちゃくれない。」
かくして俺は毎月の収入のいくらかを、コイツに貢がなきゃならないワケだ。
やれやれと面倒くさそうに、それでいて惚気るように、オルティはそう語る。舌の奥に、苦みが滲んだ。それはさっきの後味だろうか、それとも。
「…怖ェよなぁ。」
ふーっと吐いた溜息と煙。それが宙に撒かれていくのを目で追う。
「……何が、だよ。」
「んー?」
つい口を出た問いかけだったが、オルティの耳には届いたようだ。

「…自分<てめぇ>の脆さ、かね。」

嗚呼。考えたくない頭が、わかんねぇよと蓋をする。



溜 息 アンフェタミン


(…やっぱヤクだけは買う奴の気がしれねぇ。)
(? 何の話だよ。)

fin.


頭になにかが触れる感触。
それが、ふっと意識を浮上させた。

「―――……。」
「お。起きた。」
ぱち、と目を開けば至近距離でオルティと目が合う。ソファに座るエヴァグリーンと目線を合わせるように屈み、手を視界外のどこかに伸ばしているのが見てとれる。その行き先は、というと。ここでようやく意識が覚醒した。
「〜〜〜ッッてッ、めェは何やってンだよクッソ野郎がッ!!!」
「いって…随分とイイ寝起きだなぁおい…。」
実に良い音で弾かれた腕をオルティはぷるぷる振って見せる。頭にまだ触られた感触が残っているようでエヴァグリーンはばさばさ頭を振った。
「んな怒る事でもねーだろー。」
「ざッけんなクソが!俺に触んじゃねェってテメェは何遍何遍何ッッ遍言やぁわかンだよ!!」
「だったら隙を見せねぇこったな。俺の前でグースカ寝こけてる方が悪いだろ。」
言われてはたと思いだした。目が覚めた、という事は寝ていたのか俺は。任務完了の報告に来てから記憶がない。
…なんだってよりにもよってこんなとこで…。頭を抱えてうなだれたエヴァグリーンを、オルティは忍び笑った。
「気持ちよさそーに寝てたんでなぁ。呼んでも起きねぇしどこまでやったら起きるかなと思ってよ。」
「……それ以上喋んなクソ色野郎…。」
「はは、ざまねぇな。なんだよ、寝不足か?」
寝不足、と言われて一瞬、呼吸が止まった。不意に開いた瞳孔には、未だ色褪せないあの"夢"のワンシーン。
……忘れろ。たかが夢だ、忘れろ。幸いうなだれていたおかげで、オルティには気取られなかったようだ。
「ガキがいっちょまえに世遊びか。」
「…してねェよ。それにガキじゃねぇ。」
ぎろりと睨まれたオルティは、少しきょとんとした顔でまばたいた。じっと覗きこんでくる琥珀色に今度はエヴァグリーンがたじろいでしまう。
やがて、オルティは呆れたように鼻を鳴らした。僅かにわらったような、気がしないでもない。
再びぽんっと頭に手を置いて、わしゃわしゃ遠慮なく撫でまわした。

「添い寝が必要か?Pet.(坊や)」

今度は起きていたのに、弾きそこねた。
…寝不足のせい。寝不足で本調子じゃないだけだ。低い声で唸るように「要るか死ね」とだけ呟いた。



Pet the pet.

(きっとその手は、有限。)

fin.


地を蹴って、暴れ回る時だけ何も考えずにいられる。
目の前の標的を蹴飛ばし、潰す。そこにあるのはただただ、爽快感だ。
無様な悲鳴と断末魔。クソな音色だがそこが良い。ハイな気分でたっと降り立ち、最後の一人を黙らせた。
ぶつっと途切れる騒音。訪れる無音。
ふっ、と酔いが覚めた。酔ってる間は忘れていた、喉の奥の苦々しい心地を、思い出すのだ。

「お疲れさん、よくやってくれた。」
任務完了の報告をするのはいつもの支部長室じゃない。あの堅物は到底吸わないような、甘ったるい煙の香る部屋だった。
クローバー貿易商会、会長室。会長オルティの机の真っ正面。
そこの入り口ドアを雑に開けて入り、エヴァグリーンはそれを背にもたれかかった。それ以上近寄ろうとはしない。お前の味方じゃないのだと、態度でこれでもかと示していた。
そう、クソ色の味方になど成っていない。これは情報を得るための手段、取引だ。
今にも噛みつきそうな目で睨みつけるエヴァグリーンを、涼しい顔でオルティは受け止めた。オルティにしてみれば、頭をよぎる友人達よりよっぽど素直で扱いやすい。
「なかなか良い業績じゃねぇか。ウチの2・3年目より使えるかもな。」
「は?ざっけんなクソ色が、テメェんとこのクソ雑魚とこの俺を並べんじゃねーよクソ野郎。」
「褒め言葉ぐらい素直に受け取ればいいのに、やかましい奴だな。あとそろそろクソ以外のボキャブラリーが拝みたいもんだ。」
「るッせぇな何がボキャブラリーだブッ殺すぞ。」
書類を手繰っていたオルティの目が、ふっとエヴァグリーンを見やった。
「んなこた知ってるよ。」
殺しに来てる事ぐらい知ってる。
という、意味だと理解するのに数秒かかってしまって。それを恥じるかのようにエヴァグリーンは強く強く怒りをこめて睨んだ。
「……ッ、上等だクソ色が明日にでもテメェのそのツラブッ潰してやるからな!?」
「はいはい。何急にキレてんだうるせぇな。…ん?」
ふと、オルティはもう一度エヴァグリーンに目をやった。
おもむろに席をたってエヴァグリーンへと歩み寄る。びくっとたじろいだ彼に構わず、その頬に貼られた傷テープを指で撫でた。
「怪我してるじゃねぇの。」
「ッやめろクソボケ触るんじゃねぇ殺すぞ!!」
「固いこと言うなって。珍しいな、怪我して帰るなんてよ。」
かすり傷だとわかれば、オルティはさらりと離れる。その余裕しゃくしゃくな様子がたまらなく腹立たしくて、力の限りエヴァグリーンは睨んだ。クソ色が。
「ま、とりあえずご苦労さん。今日はもう帰っていいぞ。」
ひらひらと手を振ってオルティは踵を返す。それと、とついでに付け加えた。
「今回は軽かったからいいが、動けなくなるような怪我はこさえんなよ?」
「なんでテメェにそんな指図されなきゃいけねーんだよ。」
「そりゃそうだ。お前が動けなくなったらちっと困るぜ。」
煙管と同じ、飴色の瞳が、視線だけですっと振り向いた。

「お前は大事な戦力なんだからよ、エヴァグリーン。」

それだけ言うと、オルティはすたすたと机へ戻る。
エヴァグリーンは、
その背中を呆然と、瞠った目に映していた。

(……"俺"、が?)

じわり。胸に滲み、広がる何か。それをかき消すかのように、喉の奥できつい苦みが突き刺さる。
そのせめぎ合いは五月蠅くて、気持ち悪くて。ぎっと歯噛みしたエヴァグリーンは叩き割るようにドアを開け、足音荒く立ち去った。

「…ビル壊すなっつってんのに。」
言いながらも、滲む微笑。吐いた溜息にまとわりつく甘い煙。

その煙に慣れ始めた事を、彼はまだ気付けない。






fin.


ぴぴぴぴぴという電子音が、排気の音にかき消される。
うん?と首を傾げながら、オルティはおまけスロットを無視して缶コーヒーを拾った。案の定スロットは当たらない。
振り向くと一台の単車がこちらに近付いてきていた。遠目でも誰かはすぐにわかる。缶コーヒーを2・3口舐める間に単車はオルティの目の前できっと停まった。
「思ったより早ぇなエヴァグリーン。」
「てめぇが呼んだんだろうがてめぇが。何呑気にコーヒー買ってんだおい。」
「まだ来ないだろうと思ってな。しかしいいモン乗ってんじゃねぇか。」
停められた単車にオルティは目をやった。その重厚なフォルムはエヴァグリーンに良く似合っている。照りを抑えた黒い車体は指紋ひとつ無く、大事に手入れしている事が伺えた。
「だろぉ!?へへっ、クソ色もたまには見る目あるじゃねェか。」
途端、ぱぁっとエヴァグリーンの目が輝いた。むしろその変わりようにオルティは目を丸くする。この部分がカッコよくって乗り心地抜群でそれに速いしと、単車自慢が流れたがほとんど聞けちゃいなかった。
目を惹くのは、その笑顔。愛想笑いのひとつもできないくせに、無邪気な笑顔が咲き続けていて。
サドルをそっと撫でる手は柔らかく、細める目はいとおしそうだ。
缶コーヒーを減らしながらそんな愛車自慢をぼんやり聞いた。ガキだなぁ、やっぱ。大好きなオモチャにはしゃぐ子ども。微笑ましく思う気持ちもあるにはあるのだが。
空になった缶を、ぐっと握る。
投げ捨てた。ぽいと宙に投げだされた缶が、からんと地に落ちる間に…左手が彼の背を捉えていた。右手は単車のサドルを。唇は、唇を。
「……っん…。」
突然絡まる舌の感触になにもできないまま。唇が離れてようやく、エヴァグリーンは睨む事を思い出す。
「てッ…めぇこんな場所で何しやがるクソボケ!!いきなりなんなんだよ!!」
「んー…。」
それにはさすがに答えかねて、ごまかすように葉巻を咥えた。一部始終を見ていた単車に、ちらりと目を向けながら。
「なーんだろうなー?」
やや苦しい誤魔化しなのは自覚しつつ。でもさすがにこれはダサくて言えない。

お前のオンナにちょっと妬いた、などと。



Drop dead gorgeous


fin.