これほどまでに、過酷な道中だとは思わなかった。

小さな手を引き、寂れた路地裏を歩いていた。霧が濃くて先がよく見えない。そもそも進むあてなんてどこにもない。一歩でも遠く、逃げなくては。ジュジュのペースに合わせるつもりがつい焦りで足が速まるようで、小さな身体はその度につんのめっていた。
けれど彼女は転ばない。ふらつく足で踏みとどまって、私についていこうと必死に急ぐのだ。もう体力の限界など超えているだろうに。その身体はどこもかしこも傷だらけだというのに。そう思わず口にすれば、ジュジュはへにゃりと微笑んで「るまもだよ。」と言うのだ。

これほどまでに、過酷な道中だとは思わなかった。
どこを歩いても追っ手に追われ、ろくな野宿場所すら確保できず。宿を取るなんて以ての他。なんら武力を持たない私達はただただ逃げる事しかできず、女子供の足なんて絶望的に遅い。ついに昨日からは食料や水も底をついた。手に入れるアテなど、ある訳なかった。
(………、ジュジュ…。)
彼女の手をぎゅっと握るつもりが、うまく力が入らなかった。
これが、現実。そう知るのがあまりにも遅すぎて遅すぎて、滑稽と笑う気力もなかった。覚悟を決めての旅路だった。けれども所詮は小娘の覚悟。
所詮は大人に庇護されるだけの小娘を嘲笑うように。実家の商品の事を少しも理解できてなかった小娘を嘲笑うように。
この世界にとって"色違い"が、どういうモノかも知らない小娘を。
嘲笑うように。現実は圧倒的で、絶望的だった。

「あーりゃりゃ。こりゃあ悲惨だ凄惨だ。なかなかの悲劇っぷりだねぇ、カワイソーに。」

霧の中から声がした。男性の声だ。
びくっと身体が止まる。おそるおそる声の方を伺えば、霧に隠された朧な影が少しづつ色づいた。
黒いコートに真っ赤なマフラー。束ねた長髪は霧と同じ色。エメラルド色の瞳と目が合った。言葉とは裏腹に、歯を見せた口が笑っていた。
…敵だ。そう直感した私は咄嗟にジュジュを背に隠す。
そうすると男はますます可笑しそうに、にやにやと笑った。
「そーんな怖がんなって。お兄さんコワクナイヨー?アヤシクナイヨー?」
「……。」
「そう黙りこむなってコミュニケーション大事よ?んーじゃあ沈黙ヤだから身の上話でもしましょうか。」
そんな話に付き合う暇はない。そう滲ませた私の空気など度外視で、彼は道化師めいた身振りで話し始めた。
「それはある日ある時ある街の、商人の家で始まった。綺麗な紫色の"商品"を、一目見た時から物語は始まる。」
「!!」
目を瞠った。それは、もしかして。彼は構わず語り続ける。
「商品の名は"色違い"。とても珍しく美しく、高値で取引される"動物"だ。今までなんとも思わなかったはずなのに、ああ、神サマってのはゲスい悪戯をなさるねェ。娘は商品に一目で惚れちまった。このままじゃこいつは売り飛ばされて愛玩具。そうなる前にと、手に手を取って逃げたのさ。」
芝居のように語られるその話に、私は固まって動けなかった。
身の上話とは彼自身の話ではなく。それは私の、初対面である私の話だった。
「…かくして旅路は波乱万丈、ってトコロか?」
「……!!」
一気に全身が総毛立った。ほとんど反射的に私はジュジュを引いて踵を返す。そのまま走りだした。逃げなければ。やはりこの男は敵だ。私の事を知ってるなんて、追っ手以外にありえない!
男は追ってくる足音ひとつなく、代わりに言葉をぽんと投げた。
「いいのかーそっち行っちゃって。犬に食われちまうぞー?」
びたっ、と足が止まった。ほんのちょっと前の身の毛もよだつ記憶が蘇る。強張る首でぎこちなく振り向けば、彼は変わらずにやにやと笑んでいた。
「生きて逃げれてラッキーだったな。次また見つかりゃジ・エンドだ。ありゃサイコーにイカレた狂犬だからな。アンタの追っ手にあんな面白ェ奴はいなかったろ?」
「……あんたは……なんでそんなに知ってるの…。」
「やぁっと声を聞けたな。可愛い声してんじゃん。なんでって言われるとまー色々とめんどくせぇが…。」
男は口元をますますにしゃりと吊りあげた。

「このオレが天下のテイルさんだから、ってコトだ。ところでどうだお嬢さん、このオレにアンタ達の行く末を預けてみねぇか?」

…わかった事といえばテイルという彼の名前と、何かを持ちかけられていることぐらいだった。
「……行く末、って…?」
「正確にはアンタらっつーよりその子だな。その子。そこにいるちんまい色違いの嬢ちゃんだ。」
ジュジュがびくっと震え、私の神経も張り詰めた。
「オレはまーぶっちゃけちゃうとアンタ達の追っ手…というより、その雇い主?と大差ねぇ。オレも大枚はたいて色違いどもを飼うのが趣味なのさ。」
「ッ、よくもそんな事をぬけぬけと…」
「まぁ聞けって。大差はねーが違いはあるのよ。」
もうちょいぶっちゃけて言おうか?テイルはそう言うとまっすぐ目を合わせてきた。霧の中で光るエメラルド。

「オレはアンタらが住める家を用意して、アンタらの追っ手達はもう二度とアンタらを追えなくさせる。アンタらを縛ったりも監禁もしないし言う事聞かせたりもしない。その条件でオレに飼われてみる気はある?」

悪い話じゃないだろ?とテイルは笑っている。こちらは笑うどころじゃない。頭がついていかなかった。
「…それは…"飼う"のとは、違うんじゃないの…?」
「これがオレの飼い方なのよ。どっか閉じ込めてお人形さんみたいに可愛がってーとかクソつまんねーだろぉ?趣味じゃねーのよ。」
つまらないとか言われてもさっぱり実感湧かない。悪趣味だとは思うけど。
いかにもつまらないって顔で吐き捨てるテイルを眺めながら、私は回らない頭を必死に回した。どう答えればよいだろう。当然ながら信用なんてゼロだ。嘘みたいな話だし、嘘みたいな語り口。
けれど、心の奥がゆらりと揺れるのがわかった。
もし、本当だったら?
承諾したら、本当に言葉の通り、明日から住む場所と安全を得られるとしたら…?
「悪い話じゃねーだろ?」
見透かしたように、テイルが笑んだ。
「ま、無理強いはしないけどな?その代わりアンタ死ぬけど。」
「っ!?」
「誤解すんなよ?オレはアンタらに危害なんて一切加えないぜ?けどこの話に乗らないならアンタらが今日明日に死ぬのは確定だ。」
不意に先刻の追っ手を思い出した。大きな獣の腕で襲いかかってきた青年を。"能力"で人を襲う人なんて初めて見た。もしも彼に仲間がいたとしたら?彼の仲間が同じように、能力で私達を襲ってきたとしたら?
…テイルの言葉が、色鮮やかに浮かび上がった。彼はもう語らない。あんなに饒舌だったのが嘘のようにぴたりと黙って、にやにやと私の答えを待っている。答えを出すのを待っている。
答えを出さなければ、いけなかった。
話がうますぎる。信用できない。嘘みたいな話。嘘みたいな語り口。けれど、ああ、けれど。震える息が口から零れた。たとえ嘘だったとしても、ほんの少しでも今よりマシならば。
今より少しでも、
つらくないのなら。穏やかに、過ごせるのなら。


…ぎゅっと、
私の手を握った手。それはジュジュだった。小さな両手が握っていた。
「……ジュジュ?」
「………るま…。」
ジュジュが何か言いかけて、黙る。けれど堪えきれないように唇を、開いた。

「………この人、こわいよ…。」

それを聞いて。不思議な事に、私の震えや寒さはすぅっと落ち着いてきた。
揺らいでいた心へ染み込ませるように、ジュジュの姿を視界に映す。
ああ。そう。そうだよ。大切な事を見失いかけていた。
この旅の行く末を決めるのは、私じゃない。私はテイルへ向き直った。
「…お断りするよ。」
「おいおい、嬢ちゃんが嫌って言っただけでやめちゃうのかよ。」
「そうだよ。」
「マジか、アンタも相当だな。やっぱ面白いわ。」
テイルはけらけらと笑う。そのままの口調で続けた。

「じゃ、死ぬんだな?」

胸に突き刺さった。ジュジュを見て薄らいでた恐怖が、再び私を凍らせる。
「……私は、」
「死なないって?あっはは、若いねぇ青いねぇ。そりゃ無理だお嬢さん。武器も持たないお嬢さんが生き延びるルートなんざひとつもない。わかるだろ?」
「うん。わかる。」
それは充分思い知った。私は甘かった。やってけるなんて思った事が甘かった。間違いなく私は死ぬのだろう。いとも容易く死んでしまうのだろう。

「だけど、それまでは生きるよ。」
ジュジュの手を握った。今度はしっかりと、力をこめて握った。
「例えば明日でも、1・2時間後でも、5分後でも、あと10秒くらいでも。死ぬ瞬間まで私は、ジュジュが少しでも幸せなところで生きる。」
そして大きく息を吸った。若くても。青くても。この気持ちだけは一点の曇りも、無い。


「この子を守るなら、死んだっていい!!」


テイルはぽかーんと私達を見ていたかと思うと…弾けたように大爆笑した。
腹を抱えて笑いに笑う。笑いすぎて滲んだ涙を、手袋を嵌めた指が拭った。
「マッジで言ってんのかよアンタやっぱ…アンタやっぱ面白ェ…!!ぶっ、あっはははははは…!!」
「…話は終わったよね。ならもう行くよ。」
「おっとっと気が早ぇなぁ。まぁちょっと待てって。」
おもむろにテイルが何かを投げてよこした。反射的にキャッチしたのは手にすっぽり収まる小さな物。それは方位磁針だった。そこら辺で簡単に買えそうな安いものだ。
「…西に行きな。この先にあるだだっ広い森をひたすら西に西に。森を抜ければ壁に囲われた国がある。どっかに穴があるから、探して入んな。」
「西の…森…他国?待ってよ、それってつまり不法入国でしょ。保護どころか追放だよ…。」
「普通ならな。だから今だけ、使える手だ。」
そう言うとテイルはにぃっと笑み、目を細めて見せた。
私達の旅路を見透かしたように、その目はまた、別の何かを見透かしているのだろうか。私達には一寸先すら見通せない、濃霧のような"物語"を。


「今、物語はアンタらに味方している。あとはアンタら次第さぁ。イイ顛末を、期待してるぜ?」

物語<テイル>は笑った。磁石はただ導く。異国の地――シュラムヴァッサーへと。




The die is cast.


fin.